情報は文脈上でしか意味を持たない

文脈から切り離された情報は無価値以外に考えられない.意味を持つように見えるのは,自分と現代と他諸々の文脈をもって解釈しているからではないだろうか.
文脈上の情報として最もわかりやすい例が,発言者とその発言だ.
連続殺人犯に「世界の平和を願っている」とか言われても.
発言は発言者という文脈から切り離すことはできない.それでも切り離そうとするものがいるから,発言は誤解されて,失言にも名言にもされてしまい.
PCの知識は500年前には意味がないし,電気のない地域にも同様で.
馬の耳に念仏で,豚には真珠なわけだ.


まあしかし文脈の放棄が独創の始まりとも思いたくないし,理想はやはりもう一人作ることかな.役割分担.日本語の自分と英語の自分.考察担当と会話担当.アバター作成は悪くない方法だと思う.ペルソナだと思うからよくない.両方自分でいいのだろ?仮面と「本当の自分」の乖離?何を悩むのだ.それはただの役割分担だ.あなたが作ったのだからちゃんとかまってあげなよ.


ふと思ったが,文脈の放棄が類推を助長するのは間違いなさそうだ.俺には無意識の制限によりヒット出来ない検索がヒットされるわけだから.
俺がレイヤー思考を実践出来ないわけだ.それら制約で類推がうまくできないと.