音を見る能力とスパゲティコードから腐臭を感じる能力

頭の中でチャイコフスキー5番1楽章を鳴らしながら思った。
冒頭のクラリネットを隣に並べて散歩したい、と。


と書いていこうと思ったけど、書いてて普通に変人と感じたので止めておく。
共感覚について。


最近小説や漫画でやたら登場する共感覚だが、ちょっと違うと思う。
一般的な非共感覚者の、共感覚に対するイメージは例えばこうだ。

  • 「ドの音が赤く見える」

また、Wikipediaでは以下の様に書かれている。

共感覚(きょうかんかく、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。

まあ間違ってはいないのだけど、だいぶ誤解がある様な気がする。
共感覚は誰でも持っているが、現代では芸術やスポーツ等に有利なそれを「共感覚」と呼んでいるに過ぎない。


共感覚とは感情から生まれるものだ。
チャイコフスキー5番1楽章冒頭を聞いてしんみりすることや、

同じく4楽章冒頭を聞いて悠々と歩くイメージを持つことは、それ自体「未分化な」共感覚を持っているに等しい。


言ってしまえば、「ドの音が赤く見える」人とは、「高度に分化された」共感覚を持っているだけだ。共感覚自体は誰でも持っている。
赤子が成長とともに感情を分化させ、自然言語に置き換えていくように、特定の人は言語以外の感覚に置き換えていく。
初めは曲を聞いて嬉しい、または悲しい感情を抱くに過ぎなかったが、次第に心地よいフレーズに、和音に、音自身に「心地よい感触」を乗せていく。
その「心地よい感触」が視覚だったり聴覚だったりするわけだ。
そうして分化されていく感情は所謂「共感覚」として蓄積されていく。

感情に近いものから順に具現化していくのだ。
分析したものを集めたとしてもその感覚は得られないだろう。


科学者は例えば数式に同様の感触を覚える。心地よさを感じる方向に突き進んでいたら新発見をした、何てことはざらにある。
株の変動のきな臭さを感じ取ったり、ソースコードから腐臭を感じ取ることも一種の共感覚だろう。
皆同様の感覚は持っているが、それが至極当たり前であるためにそう呼ばれないだけだ。そして珍しい共感覚のみがしばしば話題となる。

何故共感覚

人は感覚を非常に低コストで扱うことが出来る。
バキでも一瞬のことを長々と数話に渡り解説したりするが、その時感じた感覚を適時ことばに落とし込んでいるだけだ。それだけ感覚は人間の思考にフィットし、高速で扱える。

成長するためには、自分の分野に於ける心地よさ、キナ臭さを理解するといい。そして言語化不可能な自己の内部にフィードバックを行うには感情を以って扱うしか方法がない。
正しい感情のフィードバックは、成長を加速させるだろう。

成長しにくい人間

成長しにくい人は、物事を分析するタイプに多いだろう。
問題を全て言語上、論理上で扱っている人間は、思考に時間がかかる。コンパイルでもされていれば別だけど。

特にコミュニケーションではリアルタイムの応答がもとめられるのに、思考を通していたら決定的な遅延が発生する。
コミュニケーションができないのはいろいろ困難だ。
まあ要は考えるんじゃない、感じるんだ、と。そうしてその流れの中から心地よいものを心地よいと覚えておけばいい。