BGM

ボレロのように終わらないサブマシンガンの連打音に加え、忘れようもない強烈なメロディ。初見では全身が拒否していたのだけど、半年ほどかけて4回くらい聞いた頃には、俺のショスタコビッチ交響曲7番に対する評価は一変していた。その半年の間に聴き直した交響曲5番の1楽章中盤、その俺が大嫌いであった箇所、強烈なスネアとトランペットによる狂気と兇器と驚喜を混ぜ合わせたような狂喜は、不変こそが兵器であり兵機であると主張している様に思われた。ショスタコーヴィチは、緩急、強弱に加え、不動という概念を持ち込むことによって、鳴りすぎる嫌いのあった交響曲をシンプルにまとめて見せた。旋律を増やせば、人はそれだけで麻痺をする。幾重にも重ねられた音と大音量によって興る混乱と喜びを自らすりかえてしまう。混乱は様々な物とすり替えられる。森を外から眺められるならともかく、生命力を奪われ、考察をする時間と感情を断たれてしまい、葉を数枚しか見ることのできないその最中において、混乱をすり替えることは容易い。同様に飽和は思考を停止させ、選択肢はやる気をそぎ、多すぎる感動は不堪と不感をもたらす。このような状況においてもまた、混乱のすり替えとは行われ易く、実際常に行われている。何を信じるべきか。その作品のどれを聞いても一見してわかる彼の作品は、一つの大きなポリシーが貫いている。そのポリシーとは自由意志から生まれた物ではなく、戦時下に成長せざるをえなかった作曲家が、生きるためにとらなければならなかった戦略である。その戦時下という状況において、そのインスピレーションが溢れてくることに喜びを見いだすことは非難されるべきことだろうか?死と隣り合わせにあり、実際に周囲の人間が死んでいくまっただ中において、彼が静かに狂っていくことを誰が止められただろう。交響曲7番。冒頭を聞いてみればすぐに、間抜けともいえる暴力の行進が見えるだろう。それに対応するように卑屈に生きる平民が見える。一時の安息が伺える。嵐の前の静けさとわかっていても、疲弊した身体には十分な休息である。友の生は喜びであり、子の生は希望であり、我が生は暴力に対する緩衝材である。隣家の死は日常であり、政府の虐殺は規則であり、我が死は短い別れである。暴力は外から眺めるには滑稽であるが、強大であり残虐であり確実であり隙はなく的確に殲滅し迅速であり破壊であり、迫り来るは終末である。幾多の死を喰らい、そこから音楽を生み出す彼は一体何者であるのだろうか。暴力の過ぎ去った後には哀愁と放心のみが飽和しており、希望がないのと同じように絶望も無くなり、その後に来るのは混乱と狂気が交じった狂喜である。そして間を置かず暗黒が襲いかかる。選択が出来るとは、幸いである。彼らは自ら死ぬことが出来る。それに対し、暴力は常時そうであるように淡々と狂っている。狂っていくことは変わらない。不変とは強さである。
(ゲームBGM:ショスタコーヴィチ交響曲7番)


弦楽器によるそのユニゾンは、突然のハプニングに付属する歓喜である。連続は奇跡であり成功は感嘆であり収束は驚喜である。驚喜とは狂気である。
(ゲーム終盤:ルスランとリュドミュラチャイコフスキー4番終楽章)


まあプロだから当たり前ではあるのだろうけど、巧いなあ、と思った。
涼宮ハルヒの憂鬱第11話BGM。冒頭は知らん。
後最終話も巧いよなあ畜生。やっぱ合唱は強力だわ。
http://jp.youtube.com/watch?v=hZCFqNHd_zI&feature=related


とりあえず音楽がすばらしいことはヒットする必要条件なんじゃないか、と思わざるを得ない。


あとkomm,siisser todか。まさにそこだけ切り抜いてあるものをたまたま見たのだが、
すげえなあれ。