なぜ私だけが苦しむのか

「この世界を作ったことが神の御業というならば、それを確かめる術はない。」 ・・・ (※)
これは数年前に考えたことだ。そして少しだけ絶望した。


なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

この本の筆者、H.S.クシュナー氏は、ユダヤ教のラビ(教師)である。
彼は息子を病気(早老症、急速に身体が老化する病気)により亡くしたことをきっかけとし、この本を執筆した。
「なぜ私だけが苦しむのか」という題名は、かつての筆者の叫びである。
ここまで読めば想像は付くと思うが、この本の内容は宗教的なものである。しかし実際は非常に具体的な内容であり、興味深いものだ。何故なら、彼の姿勢は、悩みや問題に対して恐ろしほどに真摯だからだ。宗教に興味がなくとも読めるようになっている。
誰かは「死にたくなったら読む本」、と言っていたか。

1章 なぜ私に?

本の内容はとてもシンプルだ。1章の出だしは、「本当に重要なただ一つの問い」と題した上で、次のように始まっている。

なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?

彼は、これ以外の神学的な会話は日曜の午後に行うクロスワードパズルのような物、つまり気晴らしに過ぎない、と言い切っている。
そして以降の流れが凄まじい。この問いに対する一般的な回答を並べ、一つずつ丁寧に否定していく。

犯した罪にふさわしい報いか?
時間が経てば明らかになるのか?
人間には計り知ることが出来ない、神が考える理由があるのか?
何かを教えようとしているのか?
信仰の強さを試しているのか?
よりよい世界への解放なのか?

この時点で恐らく、宗教に関わっている人なら戦慄するだろう。少なくとも、俺が知っている「救い」は全て否定されてしまった。*1

2章 ヨブという名の男の物語

次に2章では、旧約聖書ヨブ記を説明している。
ヨブとは幸福な生活を送っており、とりわけ罪もなかったのだが、神によって試された男だ。まあ色々注釈を付けないといけないらしいが。
その後ヨブの友人3人が来て、彼を慰めようとする。その慰めが、ヨブをどん底に陥れる。
そのヨブ記から、1つの問いを導いている。もちろん、妥当な結論を出している。
以降の章はその説明と具体例と考察だ。

気分が軽くなった

この本を読んでいて、少し悔しくもあるのだが、慰めを得た。
これで皆が慰められるわけではないが、引用しておこう。現代の神学者の詩だ。
「うわ、こういう宗教臭いのは苦手」と思う人は飛ばしてもいい。

 神よ、戦争を終結させたまえとは祈りません。
自分と隣人の中に
平和への道すじをみずからみいだすべしと
神がこの世を作られたことを知っているのですから。


 神よ、飢餓を救済させたまえとは祈りません
われらが知恵をめぐらせさえすれば
世界中の人が食べるだけの資源を
すでにさずけてくださっているのですから。


 神よ、偏見を放棄させたまえとは祈りません。
われらが誤らないのでさえあれば
人はみな善であると観る眼を
すでに与えてくださっているのですから。


 神よ、絶望から脱出させたまえとは祈りません。
われらが善政を行いさえすれば
スラムに太陽と希望を充たすすべを
すでにさずけてくださっているのですから。


 神よ、病苦を根絶させたまえとは祈りません
われらが正しく用いさえすれば、
治癒の方途を探求する知性を
すでに与えてくださっているのですから。


 ですから、神よ
ただ祈るのではなく
力と決断と意志をのみ
われらは祈り求めるのです。

何年も前にこれを読んだ記憶がある。まあすっかり忘れていたわけだが、おかげで思い出した。
俺は、自身が生きて幸せになるのに、十分な能力と環境を持っていることを既に知ってしまっているのだ。理解したくはなかったが。
だからあと必要なのは、陳腐に聞こえるかもしれないが、勇気と決断力と意志だ。

全ての理由と自由意志

「世界はそのように出来ているから」という理由は、全ての理由となり得る。
なぜ俺ばかりが悲しむのだ。そのように出来ているから。
なぜ息子が苦しまなくてはいけないのだ。そのように出来ているから。
なぜ私たちばかりが責められるのだ。そのように出来ているから。
なぜ銅を火にかざすと緑になるのだ。そのように世界は出来ているから。科学にも使えるオールマイティな理由だ。


しかし世界がそう出来ているということは、苦しんでいる人の慰めにはならない。
筆者は、神は災難が人間を襲うのを止められない、と言っている。

思うに、神が存在するのならば、彼は人間に選択の自由を授けた時点で、物理的干渉は出来なくなったのだと思う。
神が「自分の存在をばらすことなく」人間に手助けするなら、物理的なものは不可能だからだ。*2
誰が殺人犯のナイフを止められるというのだ。殺人犯にも選択の自由があるというのに。


あと余談だが、現在の量子論は、選択の自由を授けるために作られたんじゃないか。ただの直観だが。誰か「脳と量子力学」もしくは「心と量子力学」とかで研究してみてくれ。

なぜ隠れる?

前述の「自分の存在をばらすことなく」、というのも引っかかる。
神がもし居るとするのなら、俺は彼に対し、ずるいと思わざるを得ない。何故彼は自身の存在の証拠全てを消してしまったのだ?
絶対的な存在は人間にとって何より心の支えとなる。それなのに何故消えた。
「信じることは力となるような世界」を作っておいて、何故絶対的な物を作らない。ずるいだろ。作っとけよ。観察して愉しんでんじゃねーよ。
まあしかし俺が神になって世界作ったら、当然証拠は全て消すけどね。
結局理由はわからない。
聖書が正しいなら、昔はたまに干渉していたが、それでは人間が奇跡の力に依存し、堕落してしまうから干渉をやめてしまった、ということになる。確か。

信仰と力

信じることは力だ。物理的ではなく、精神的に。信仰は災難に対する精神の盾であり、祈りは信仰を補助する。*3
世界は恐らく、信じることが力になるように出来ている。しかもこれは信じる対象が神に限らない。
バナナや納豆のダイエットを信じることは、信じる程度に比例して精神を安定させる。ただし、信仰の対象に矛盾が生じるとその力はなくなってしまい、精神は酷く不安定になる。だから見聞の広い人は絶対的な物を求めようとし、バナナや納豆を信仰はしない。当たり前だ。

神の不在と人間の定義

神が実際には存在しないとするとどうなるか。人間は、信じることは力である、という経験則を得たと言えるだけだ。

しかし確かに神の不在を確かめるすべはないが、現に多くの人間は神を存在するとしている。
これは世界に意味を与えていることに相当するだろう。
神が居ないのに、世界は神によって作られたという意味を与えている。


ここで人間を新しく定義できそうだ。
人間とは、意味を与える存在であると。


その人間は俺には動く肉塊と解釈することが出来るのだが、貴方にとってはかけがえのない息子である。
俺にとって貴方の人生は無意味な物とみなすことも出来るが、貴方にとっては唯一の貴重な命である。
貴方のその悲劇は俺にとって何の意味もないが、貴方はそれに意味づけすることが出来る。
筆者は、息子の死によって多くのものを失ったが、それを機に多くのものを得た。


以前の俺は、(※)と考えた時点で、思考停止してしまっていたのが良くなかった。
神はいるかどうかわからないが、貴方を慰める神を信じるならば、それはまちがいなく力になるだろう。

*1:ただ、この本では死後の世界のことは語られていない。あくまで現世のことのみについて言及している。

*2:聖書の多くは比喩だと考える。「もてる者には与えられ、もたざるものは奪われる」というのは、知識の有無と考えると、比喩と考えることが一番すっきりするため

*3:クシュナー氏の祈りの解釈も面白い。是非読んでくれ