悲しみの仮想化

悲しみを仮想化して、俺への影響を少なく出来ればいいわけだ、と思った。
それは人格の仮想化と同じであるのだろうか。つまりは多重人格のエミュレートなのだろうか。特定の感情をほうり投げるにつれて次第に他のものも吸い込まれるようになり、結果俺は感情を無くしてしまったりするのだろうか。もしくは何かの拍子につながりが切れてしまって本当に人格が分裂してしまったりするだろうか。それは正直俺の友人やらに迷惑掛かるだろうから望ましくないのだけど、今までと同様に処置するのもあまり良いとは思わない。というかブルックナー演奏以降、音鳴り*1が複雑に豊かに鳴るようになったというのに、それを失うのは少々もったいない気がするのだ。ようやく映画やアニメや小説や会話など、いろんなものを楽しめるようになったというのに、傷つくたびに感情を絞るのはひどくかなしい気がするのだ。
ということで、もう一人つくった。もしくは既にいた。
以降その涙はやたら嘘くさく、リアルに、頬の感触すら残して流れる様になり、概ねうまく機能している気がする。

理系人間というもの

私的に、文系人間はいるかわからないのだけど、理系人間はいると思っている。それは全く定義の定まらないbuzzwordであるわけだが、論理で全て説明できると思っているなど、一種の中二病のようなものと考えると何かすんなり納得できる。
俺は全く理系人間であって、自分ばかりを見つめていた人間だ。どうやら典型的でよくいるタイプらしい。中学のときにエニアグラム?という分厚い本のThinkerの章を読んだときは爆笑したね。泣きながら爆笑した。人格や性格の分類は馬鹿らしいと思っているのだけど、自分が極めて典型的な存在であることは確認できた。自身の特殊性幻想もその時砕けた。まあ、それはいい。
しかし自分のことばかり見ていたお陰で、ハードウェアに近い所にもセンサを置けるようになったらしく、もちろんそれは俺にしかわからんのだけど、結構役に立っている。センサが置けるということはフィードバック出来るということだから。フィードバック出来るならば、いくらでもと言うわけではないにしろ、成長出来る。記憶方法もコミュニケーション方法もバイオリンの弾き方でも。また、人はハードウェア限界まで使っていないということも実感できたから、解像度を上げることもできる。*2
そうして、身体の敏感さというものは、心の敏感さとおおむね相関があることが分かった。敏感な人は鈍感な人より刺激に対して驚き易いわけで、驚き続けていれば刺激が怖くなるのも当然と思う。相手のしぐさや態度、声の大きさなどにびくついていたら、コミュニケーションに支障もでる。
最も鈍感な女性と最も敏感な男性を比較したら、それでも女性の方が刺激に対してずっと敏感だった、というような実験結果を聞いたことがある。ソースは忘れたが。だから鬱になるのは女性が多いという統計結果は、何となく納得してしまう。女性すげえ。どうやって生きてるんだろう。もちろん刺激に対して敏感なら、それはそれで生かす方法はいくらでもあるけど。リラクゼーション音楽やアロマキャンドルといったものを女性が好むのは恐らく偶然ではないだろう。俺も匂いに少し気をつけたら日々のストレスがだいぶ軽減した覚えがある。


もし前述した心身の相関が正しいなら、感情を閉じるのは結構簡単だ。身体の出すシグナルを無視し続ければいい。そのうち心身ともに鈍感になる。もちろん経験則でしかないし、俺のプラシーボみたいなものかもしれんのだけど。
しかしその逆、感情を開くことは結構難しいという。まあ盲点の存在に気付かなければいけないようなものだしね。


そして感動を絞らずに生きていくにはどうすればいいかと思考錯誤して、悲しみを仮想化することにした。
理系人間てのは、自分を納得させるだけの論理と根拠を用意出来るのなら、実行は難しくなかったりする。そうやって世界を分析、つまり構築してきたから。

才能て。

才能てなんだろう。成長出来ることだろうか。技術であるならば、大抵は適切にフィードバック出来るなら、それだけで人並み以上に成長出来るぜ。
美術や音楽は適切なフィードバックを自分自身で実感することが難しそうだけど。だから、よいものを見極める目や耳が何より先ず必要になると思う。
成長とは意識的作業を無意識にまで落とし込むことを言う。少なくとも感覚的な技術は。ここは未だフィードバックと試行錯誤以外方法論がない。
論理以上に関する成長は、適切な言語定義でだいぶ促される。
センスとかひらめきはそのあとだろう。そしてそんなものは他の分野から類推と抽象と論理と論理飛躍(センス)と演繹を駆使すれば幾らでも出てくるものだし。

新しい視点を得たいのならば、新しい言葉を作ればいい。一つの単語とは一つの視点と等価だ。もちろん、問題に対する有益な視点を見つけることは別問題で、依然難しいままなのだけど。
後は思考錯誤と試行錯誤。仮定を置いて論証、検証を行う。適切な仮定の設置もなかなか困難だが。
世界と自然と歴史は巨大な手本であって、人生は実験の連続だ。俺にとってはね。


で、才能て何だろう。運は今のとこ俺にはどうしようも出来ないのだけど。そこは行動力とソーシャルネットワークが効いてくるのかな。

友人や子供が芸術やライターの道に行きたいと言ったらどうするか。

俺なら成長する方法を教えて、「自身で決めたポリシーを持て」とか適当なこと言って放っておきそう。たまに一緒にうまいものでも食いながら。

要は勇気がないんでしょ。

理系人間て小さいころから部分的にやけに論理的だったりして、それ故科学や数学も大抵好きだったりして、世界が硬直しやすい気がする。世界を構成する物理、数学といったものが自分の外にあるから。とはいえ実際のとこはしらんけど。気づかせてあげたいけど言葉で言っても伝わらないだろうし。

まあ俺自身の転向のきっかけも人との出会いだったから、何とも言えなかったりする。その後も、人との関わりに助けられているし。

自分の心との折り合いがうまく付けられれば、成長するのは敏感な人であると思うのだけどね。
敏感故に閉じこもってしまった人の助けに鳴りたいものだ。




以上、以下を聞きながら散漫に考えて書いた。いい曲だね。


Human2.0

そして意識から無意識への落としこみが方法論として確立したときこそ、ヒューマン2.0がはじまるのさー。
意識上の作業の、無意識への移行。リソースの膨大な無意識へ。できるかねえ。
ネーミングが変ならホモサピエンス2.0でもいい。略してホモ2.0。
まあ残念ながらどっちにしろ古臭いことは否めない。
文章が全体的にきな臭くなったことも否めない。

*1:私定義。俺の頭の中では常に音楽が鳴り響いている。

*2:ちょっと自慢になるけど、http://masudayoshihiro.jp/software/mamimi.phpこれによると、俺は20500Hzまで認識できるようだ。静かな環境ならもっとわかると思う。数年前は19kHzあたりでわからなくなっていた。恐らくハードウェア(肉体)限界はもっと上にあり、以前は「聞こえていることに気付けていなかっただけ」だと考えられる。20kHzが聞こえた時は、正に盲点の存在に気づいたような感じだった。