言語を構築したい

自然言語完全

たしかプログラム言語は条件分岐と反復ができればチューリング完全だったような気がするが,それと同じように自然言語として同等の能力を持った言語を「〜完全」とか言わないのだろうか.
まあ「自然言語完全」とでも言っておく.

私定義

言葉は基本的なものは辞書により定義されているが,一人一人がもつ単語の定義というものは微妙に異なっているものだ.それゆえ同じ文章を読んでも読む人によって違う感じ方をしたりする.そりゃそうだ.
その,個人がもつ単語の定義を「私定義」と呼ぶ.私的に.
この私定義により,個人の特質はだいぶ変わってくると思う.


さて,定義というものは大体誰かが勝手に決めるものだ.勝手に決めて,特に矛盾など無いようならば,それは定義になりうる.もちろん,私定義は個人個人が勝手に決める.あまりに辞書的意味や現実とかけ離れていると問題が起こるだろうが,辞書に載せられない,つまり言語に表わすことのできない,グレーな部分は個々が勝手に決める.

単語の次元(メタ性)

ここでは単語は主に2つに分けたい.五感や感情に直結しているベタな単語と,そのベタな単語の組み合わせによって表わされる(定義される)メタな単語だ.
ベタな単語,とても低次元の単語は,個人によって感触が大きく異なる.「好き」とか「青い」とか.
青と緑の中間を持ってきて「これは青か緑か?」とか聞いたらどこまでが青くてどこからが緑なのかを決める線引きが人によって違うのは当然だ.
ただ,二人が一緒に長く生活していると,同期(シンクロ)を起こし,二人の単語の私定義は引き込みを起こす.つまり,似てくる.子供が親に似るのは当たり前だと思う.形質は遺伝上の親に,内面は,育て親に.
そして,メタな単語は他の単語によって定義されるわけだから,差異は小さくなる.はず.
まあベタに近い単語は,ではむしろ違いは顕著になるかも.


ここで単語にメタ性を持たせたわけだが,どちらにも分けられないように思われる単語がある.
言語の論理的な実装部,つまり接続詞や,否定を表す単語だ.
これらが感覚から決まっているとは思い難い.個人による差異が無いし.
かといってベタな単語で表すことも難しい.なんだこれ.
まあ時間軸上での因果関係を記述するために生まれたのだろうから(適当),ベタなのだろうか.
否定はまた別かもしれないけど.
あと文法的意味しか持たない単語もそうか.こちらは高次なのだろうが(抽象度が高い),低次であるかのように扱わなければならない.


人は個人個人,最もベタな単語と,それに近い次元の単語を私定義(の集合)として持っている.量的には,その私定義が「自然言語完全」である程度に持っているのだろう.
つまり,それ以外の単語は全て,その私定義の組み合わせによって記述される.


定義は,先ほども言ったが結構勝手に決められるものだ.
数学のネーピア数の定義は,
e \equiv \lim_{x\to \infty} (1 + \frac{1}{x})^x
と定義したり,
\{e^x\}' = e^x
を満たす数としたりする.どちらでもよいはず.どちらかを定義すれば,もう一方が真であることは言えるからだ.この例わかりにくいか.


まあとにかく,私定義をどこまで持つか,どれくらい持つかは,人によって違う.
コミュニケーションが高い人々は,おそらくこの私定義を必要以上に(自然言語完全である以上に)持っている.だから,より多くの単語を定義できる.他の人の言葉を理解しやすい.単語に複数の定義を持たせられる.
TMTOWTDI ... There's More Than One Way To "DEFINE" It(定義方法はいくらでもある)」


そして私定義の集合が足りないと,相手の発言は理解しにくいわ表現方法も貧困だわ.
人の能力は「持つ者はさらに与えられ,持たない者はさらに奪われるだろう」的なところが多分にあるのだけど,言語能力もその一つだと思う.


この,どのように私定義を決めても良い(自然言語完全であれば良い)ということが,外国語習得の妨げになっている気がする.極端な話,英語を日本語に正確に対応付けして(英語学習法として最悪の方法と言われてるやつだ),使う際に翻訳しながら話す,という方法でも全く問題ない.たぶん,言語的には.
しかし実際使う際問題だ.疲れるだろ.知らないけど.
それができる人は最適化がうまいんだ.言語の最適化方法を,直感でつかみ取っている.世の中なぜかそういう人がいるらしいね.俺はできない.言語以外なら結構直観を当てにしてたりするけど.

さて

言語を構築しよう.自分の中に.簡単にいえば外国語習得.私的には英語をちゃんと構築したい.
ベタな単語と論理単語と文法単語を,母国語を介さずに習得すべきだ.たぶん.
一番いいと思われるのは,よく使われる「文章」を,自分の「感触」にマッピングすることだ.単語単位で私定義を構成すると,文章の構成,分解が面倒だから.
つまり,私定義として,(単語に対しかなりメタな)フレーズを覚えていくのだ.
実際にはそれと,ベタな単語と論理単語と文法単語の習得を並行してやっていくと,いい感じにフレーズが抽象化されて覚えられるのだと思う.
母国語なんて,まず大量のフレーズを親から伝えてもらい(音声から感触へのマッピング),その後その積み重ねを元に学校で文法を習得する.そんな感じだろうから.


このとてもメタなモノを私定義とすることは,専門分野でしばしば行われる.
というのは,とても頻繁に出てくる単語はいちいち他の複数の単語で置き換えることが億劫であり,そんなことをしているとメタな単語ばかりで構成される文章など,到底理解できないからだ.そこで一度言語で理解した単語を,ベタに落とす.この方法は人によって違うだろうが,俺は(というか多くの人は)絵的イメージに落とし込む.
イメージは,言語よりもたくさん情報を持ち,なおかつ覚えやすいから.言語よりもよっぽど感覚に近いと思う.

発信的勉強法?が唱えられて久しいが,その一つだろう.


というかベタな単語だけ覚えることは使用上効率悪過ぎ.ネイティブの如く話せるようになるのは不可能.


しかし,以上の方法で覚えるべきフレーズなんて恐らく1000じゃ済まないし,下手したら抽象化できずに結局習得できないとかありそうだし.どうにかならんものだろうか.
元から覚えるべきモノ(一部抽象化されたフレーズ)がわかっていれば初めからそれを覚えれば済むだろうし.
ということで英語の場合に限定して考えてみた.
けど的外れかもしれないしなあ.


つづかないかも.