変身×カフカ

とても面白い。
一時の気の迷いによって虫に変身してしまうと、このようになりますよ、と言う話。嘘だけど。
グレーゴル・ザムザはもちろん、少なくとも意識上では、望まずに変身してしまったのだが。


読んでみて先ず疑問だったのが、その虫が一体何であるか、ということだ。記述はたびたびあるために大体の当たりはつくのだが、そのような虫を俺は知らない。ザムザは、自身を見ることが出来ないのだ。両親や妹の反応を見て想像するしかない。
全く、人間そのものを書いている様にも思える。
解説にも少しあるが、ザムザを狂ってしまった人間として読むと全体を少しすっきり見渡すことが出来る。
狂ってしまった者は幸せである、と俺も一時期思ったことがあったが、「完全に」理解することのできないことで怒られたり、嫌われたりすることは、とても悲しいだろう。
アルジャーノンに花束を」でチャーリーは最終的に自分を幸せだと考えたが、俺には悲しみの理由を理解できない状態になることが恐ろしくて仕方が無い。恐らくは理由の存在すらわからなくなってしまうのだろうが。
アルジャーノンを読むと、「このちっぽけな理性にしがみ付いていることが恥ずかしく」思え、皆もそうなのだ、と言い聞かせて納得させるのだが、果たしてそれでいいのだろうかと自問してしまう。
閑話休題。ザムザは意識ははっきりしているが、その形ゆえ妹とも意思疎通ができなくなる。その体は望まぬのに勝手に動いてしまい、その体に馴染んだと思ったら人らしい思考がいつの間にか削げ落ちている。
狂ってしまった人は、「自分は正常である」としばしば言い張るらしい。恐らく、その通りなのだろう。理性を持っていても、体が勝手に動いてしまうのだろう。もしくは常識の尺度がゆがんでしまっているのだろう。
狂人視点の話と見るとなかなか理にかなっているように思える。もちろん不可解な場所は多々あるが。


解説が、また面白い。
「変身」のストーリーなど、無いに近い。虫になって嫌われて死んでいく。それだけだ。だから読者は混乱する。
色々な解釈がなされているが、まあ置いておこう。カフカが「変身」を失敗作(不完全)だと思っていたのは特筆に価するが。


「変身」とは、いっそ狂ってしまいたいという、カフカのひとつの夢だと私的には考えている。


カフカは、その人生で生死を選択した。生物としてではなく。
太宰も、同じく選択した。最終的には文字通り命を捨てることを選んだ。
フランツ・カフカは文学者として生きることを選び、太宰治は死んで文学者になることを選んだ。


カフカが俺と全く同じことに悩んでいたことには少なからず驚いた。まあ俺は全く典型的な外れ者らしいから、他にも同じような人がたくさんいるんかも知れないけど。俺はどっちを選ぼうか。出来れば新しい道を模索したいが。


全く、満ち足りた豚であることは醜く、恥ずかしい。