夜は短し歩けよ乙女/森見登美彦

理由はとりたててないのだが、私は本書を古典だとばかりおもっていた。強いて挙げるなら題名から迸る感性が素晴らしいということか。こんな素晴らしい題名を考える人が平成を生きているはずがない、と。そしてこの本を読める私は特別な存在なのだと感じました。


冗談はさて置き、本書は読んでいてとても楽しいと言わざるを得ない。私の妄想癖はこの読了によって完成と成ったのです。嘘ですが。作品紹介は遅楽2行で十分だろう。

乙女。恋とは無縁だったお酒好きの娘。炊飯器より面白くない無粋者らしい。
青年。彼女の後ろ姿の世界的権威。

何故少女の対義語は少年なのに、青年の逆は存在しないのだろう、と思案したところで「乙女」という言葉を思いつく。そもそも題名にも付いているじゃないか。ふと思いついた女性を「乙女」と呼んで良いものかと思案したところ、呼ばない理由が一切存在しなかったので今度そう呼んでやろう。しかし、「おいそこの青年」と言うことはあろうとも「おいそこの乙女」とは呼ばないところを見ると、やはり間違いなのではないかと帰結せざるを得ない。

女性は「乙女」と呼ばれたら一体嬉しいのかどうか、どこかの世界的権威に調べてほしいものだ。


そんな京都大学物語であるわけだが、序盤を読んでいてもどの時代かが見えてこない。昭和初期中期後期どれかと思いつつ読み進めると、100円が安いとの記述がある。では昭和中期後期のどちらか、もしくは現代の感覚に換算しているか、またはかの東の果てに存在する「ジパング」という国の記述なのか、と思っていれば唐突に尾崎豊が出てくる。「盗んだバイクで走り出す」という歌詞に反応出来たのは、全く隣人によるものだ。感謝せねばなるまい、と思っていると熱さまシートが出てくる。
そこで俺はジパングだと結論づけた。


本書の楽しみは、どこの国の出来事かとは全く関係ない。
分かりやすい多数の伏線に、想像しやすいストーリー。
読めば自然に彼女の陰影が浮かび上がるだろう。俺は全編ジブリ風で再生された。
竜巻から抜け出たところなど、まるでラピュタではないか。目下に広がる京の碁盤に、遠くに見えるなんとか山、目を刺す朝日。なむなむ!
羽海野チカは自分のキャラで動いたようだ。解説に描かれている。大学生にはとても見えない。各自好きに想像すればよいだろう。


ひとつ、象の尻はどこか真似すべきだと思った。
現代はジパング的象の尻精神が足りない。


青年はぼやく、
恥を知れ、しかるべきのち死ね!
乙女は呟く、
夜は短し、歩けよ乙女。