言語モード

ここ数か月非言語モードでも作りたいなと思っていてごにょごにょしていたのだけど、結果は散々なものだった。どうやら手段が悪かったらしい。
慣れないことはするもんじゃないね。
と、先月の俺なら一言で済ませてしまいそうだが、それ以前の状態にまた戻りつつあるので、気づいたことを書いておこうと思う。


言語とは論理を扱う手段だ。自分の内部だけに限定すれば。他人との対話ツールという意味合いも大きいけどまあそこはおいておく。
今回俺がやってみたかったのは言語以外のものので論理を扱おうというものだ。何故かといったら言語はコストが高いから。出来れば視覚を代用として用いたかったのだが、それを制作する段階まで到達していない。何故視覚かと言ったらそれがおそらく言語よりコストが低いから。何故出来なかったかと言ったら、要するに言語という手段を捨てたから。今ある唯一の手段を捨ててから他の代替手段を構築するなんてできるわけがない。それに気付かない俺阿呆。

しかし代わりになかなか面白い体験をしたと思う。自分の性格が大きく変わるという体験。好みが変わるという経験はなかなか出来たものじゃない。と思ったら今考えると5年くらい前と2年くらい前も同様の経験しているのだった。原因はよくわからないけど感覚に頼る割合によるのかな。まあ変わらないものは変わらないのだけど。


以下適当に書く。書くのをためらわない為には並列に書くのがいい。


自分の特性を眺めてみると、ある特性が他の特性に依存していることがよくあることに気づいた。それはすべて記述したらツリー構造になるのかラティス構造になるのか循環するのかはよくわからいけど、恐らくラティス構造なのかなと思う。多重継承あり。とはいってもこの辺のアーキテクチャは人によって違うのだろうけど。


自分が持つキャッシュサイズ(メモリー)によって思考形態がおそらく変わってくるのだと気づいた。恐らく人は物理メモリだけでなく抽象化されたソフトメモリでも持ってんじゃないかと勘ぐっているのだけど、ところでこのキーボード打ちづらいな、その1次キャッシュ、2次キャッシュ、3次キャッシュ等がどのようにどの感覚に割り当てているかで恐らく思考形態が変わってくる。


言語は論理を操る手段と言ったが、恐らく現在もうすでに、言語以外で扱っている部分と言うのは存在するのだと思う。ただ言語が扱っている割合が圧倒的というだけだ。その割合も訓練でもしないなら人によって天性と環境によって多少違う程度。
非言語を言語にとって代わらせるには、言語と同じだけの柔軟性と拡張性と論理性と身体性を持たなければならない。
言語の身体性について少し触れておく。当たり前だが、言語と感覚は密接なものだ。言語とは感覚を置き換える対象である。視覚であろうが聴覚であろうが触覚であろうが、人は大抵言語に置き換えることができる。他人への伝達を考慮しないならば、その言語の自己拡張性によって文字通り無限に拡張が可能である。人はそれだけの感覚分解能と抽象能力とを持っている。
言語を視覚に置き換えるとは、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚を全て抽象化された視覚に置き換えることが出来なければならない。
簡単に言うと、共感覚以上のマッピング能力がないとそれは不可能だ。人は成長とともに言語に最適化してくる。それを壊し再構築を行うとは、困難なだけでなく、当然他人とのディスコミュニケーションも不可分で付き纏う。
しかし不可能ではなさそうだ。第2外国語を操る人がいるのだから、視覚言語を扱うことが出来ないわけがない。
俺は言語系習得というかベタな作業が苦手どころか苦痛であるため恐らくではあるが、言語習得が得意な者ほど共感覚は習得しやすいだろう。ちょっと誰か統計取ってくれ。
明らかに共感覚と他言語習得は同じ問題に還元される。感覚の置き換えだ。五感を第二外国語に「瞬時に」置き換えられるか、視覚に置き換えられるか、かの違いでしかない。さらに言うなら「置き換える」は正確ではない。「想起」出来るか否かが問題だ。感覚のドライバーとでもいうべき、誰も直に触ることの出来ない領域を如何に操るか、コントロールするか、それによって習得の可否が決まってくる。ついでに言えば「成長」も全てそこに還元できる。自己の全ては非言語との戦いである。


俺は感覚取得に特化しているがその出力は苦手であるようだ。感覚の分類は子細に出来るが置き換えが出来ない。それらをともに得意な人が、恐らく言語習得を容易に行うことが出来る。女性が言語習得が得意だというのが本当ならば、その一因は感覚の分化が得意ということにあるのだろう。


さて、ここまでの論が正しいなら対応も可能だろう。共感覚が習得できる日も近い。俺が出来るかどうかは別にして。
そちらは後で考えることにする。




過去の記憶はしばしば美化されるものだと言うけれど、それは必然ではないだろうか仮説を立ててみた。
人は内部にアンプというか記憶増幅器を持っていて、記憶が呼び起こされるたびに増幅されていくのだ。そして増幅されない記憶は「忘れる」と言う。
その副作用で記憶が美化されるという説。
そうだとすると、トラウマは一層酷くなる、とも言えるがどうだろう。俺トラウマ持ってないし。


蓄積されない人間関係。
人に会うたびにその人に関する記憶が初期化されるという厄介な能力。どこかに願望として潜んでいたらしい。




此の感覚は懐かしい。内省や回顧、上達、発見などは寂しさを補償してくれないのだけれども。