意識

意識:全空間→既知空間

意識はフィルタと言う意見にちょっと納得したので、考慮してみる。
フィルタ(Filter)。意識と無意識の間に在るものとしてみよう。それ自体が意識ではなく。

無意識とは、全ての経験にフィルタを通し、発生してから現在までを積分したものと考える。
フィルタとは、経験から感覚のみを通す。

というか無意識−意識間の間が狭いというなら、フィルタがあるというよりは、感覚的な経験はヒトにとって情報量が小さいと考えたほうが自然だ。
言語など概念というものは、情報量が大きいのだ。しかし、もし文字の視覚経験が無意識から意識へ戻されたとき、それを意識が再認識できるならば、結果として概念も通すと言えるかもしれない。ことばの聴覚経験についても同様。
瞬間記憶とかそんな感じじゃないだろうか。

普通の人は意識上で感覚を扱うことが上手くできなくなったのではないか。経験を言語に変換することによって扱うことで、痛みや眩しさという感覚経験は、「痛い」、「眩しい」と認識するようになった。そうすることによって、感覚は保存可能になり、伝達できるようになった。そして人々の間で共有された感覚から、たくさんの概念が定義される。人は、高次の概念を持つことができるようになった。
そこでようやく、人は自分を認識することになる。

話は逸れるが、単語の定義の根幹は、感覚だと思っている。
方向としての「右」という単語はどうやって定義されているだろうか。広辞苑にて引いてみた。

みぎ【右】
?南を向いたとき、西に当たる方。⇔左。
(以下略)
これをみると、南と西によって定義されている。
では南を引いてみよう。
みなみ【南】
?四方の―。日の出る方に向って右の方向。みんなみ。⇔北。
(以下略)
なめてんのか岩波書店。と言いたくもなるが(俺も初めて聞いたときはそう思ったが)、これは元々言語が言葉によって定義されているわけではないことを示す。感覚から定義された言葉は、他の言葉によってあらわすことがひどく困難だ。
しかし人は、再帰的に言語を使うことによってそれも可能にした。単語は、全て他の単語を並べることによって(時には文章によって)説明できることとした。言語はそれ自体で閉じた環となった。言語は、原理的に全てを言語のみを使用して定義できるようになった。

もうひとつ例を見てみる。数字はどこから定義されたものだろうか。
思うに、視覚情報から生まれたのだ。人は、同じものの個数を表すために、物の形さえも捨象して「数」という概念を得たのだ。
初めは縦棒の数やら石の数やらで数を表したのだろうが、多くなってくるとそれでは不便になってくる。そこで数個分を新しい数で定義して表すことにした。今では数字は零点と単位元を基準に定義されている。気がする。ごめん適当。
視覚から数字が定義されたのならば、0と言う概念が暫く見つからなかったことは極めて自然なことだ。


閑話休題
人は、どこまでも広い空間を扱うことが可能になった。どんなに複雑な概念であっても、それをまとめて一単語で定義すればいいのだから。言葉は、人間の感覚で理解しやすいように、世界を伸縮してくれる。
高次元定義の発見は、論理を生み出す。
感覚に直結する定義(源定義とでも呼ぶ)は、矛盾を含み得ない。矛盾という概念が高次の概念だからだ。

そうして論理を得る代償として、人は感覚を上手く扱えなくなった。意識上で概念は大きな情報量を持っている。意識は言語で埋め尽くされ、自身を再構築し、感覚は捨象され無意識に溜まるのみ。意識のリソースは相対的に極端に少なくなり、無意識はただ人を脅かすだけの存在となった。
意識はこうして、言語により新しい形を得る。

意識:全空間→言語^n,\hspace{25pt}n\in\mathbb{N}