高次の低次元化と創作

私定義がベタな単語で構成されているとするならば,単語や,文章は高次元となる.
イメージや触感などの五感は,言語という点から見れば高次と言えなくもないが,まあベタだ.感覚そのものだし.


高次のモノをベタにして嬉しいことと言えば,想起の対象となりうることだろう.
何かをトリガとして思い出すことが想起なわけだが,経験的にベタでないものは想起されない.もしされるとしても,それは先程ちょっと耳にしたから,等と偶然によるものだと思う.
それなのに,低次元化されていると実質高次元であるものが,何の苦もなく想起される.
どういうことかと言うと,感動から一つの大曲が想起されるということ.何気ない経験から世界を変えうる大発見を思いつくということ.すばらしいアイデアが湯水のようにあふれてくるということ.
共感覚を持つ人が創作的であるのはある意味当たり前なのだろう.
彼らは日常的に生活しているだけでアイデアの種には困らないのだ.


人は,未だ創作のためのメソッドを確立していない.まあできないのかもしれないし.
だったら高次のモノを低次元化し,私定義をより多く持つというアプローチは悪くないかもしれない.


成長とは,物事を感覚や感触(低次元)に組み込むことだと思う.ネイティブ化こそ成長に等しい.
論理を構築することで(言語層以上で何かを組み立てることで)成長できるとは思えない.それは学問,仕事的には進展であるかもしれないけど.論理的に組み上げていくと,全体を把握できなくなってしまい,低次元化をせざるをえなくなる.意識のリソースは有限だからね.それこそが成長だろう.