アインシュタインと靴下。

量子論において、「観察」は大きな意味を持つ。シュレディンガーの猫でも考えてみるといいかもしれないが、観察していないものは、その状態(位置や運動量)を特定することができない。観察することによって、猫が死んでいるかどうかがわかるのだ。
観測て何だろう。


量子論におけるド・ブロイ確率波の説明のほかに、「多世界理論」とかいうものがあるらしい。よく知らないが。よく知らないが、シュレ猫の例で言えば、同時並行的に「猫が死んでいる世界」と「猫が生きている世界」が存在しているらしい。そして全系は、それらの重ね合わせ状態として存在する。実際には猫に加えて観測者の状態、確率的な時限爆弾(放射性原子とそれが分裂したかどうかを検出する装置、毒ガス発声装置)の状態やらも合わさっていろんな世界が同時に重ね合わせ状態として存在していると解釈する。

そして観測することによってそれらの世界が収束する。

と思ったのだけど、多世界理論は古典的観測器の存在を考えていないらしい。つまり、確率波の収束を考えていない。観測器も観察者も量子的であると考え、それらの状態によっても世界は分岐していると考える。観測者は、観測したときにようやく、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」のどちらかに存在しているかを知る。他の世界のことは知ることができない。


どちらでもいいのだけど、観測とは何だろう。
観測には人の解釈が必要か?


まあそれはともかく、アインシュタインは靴下を履かなかったらしい。
それは、靴下を履いてしまうとその覆われた部分が観測不可になり、そこが本当に自分自身の足であるかどうかわからなくなってしまうからだ。つまり靴下を履かないことによって観測可能にし、その足が自分自身であることを実感していたのである。アインシュタインは靴下を履かないことによってアイデンティティを保っていたのである。

という俺の想像は当たり前ながら全くの見当違いであり、靴下が当時破けやすいものだったから、妻の負担を軽くしようとか、自分の身につけるもの(拘束するもの)を少なくすることによって自分自身の自由度を大きくしようとしていたかららしいよ。散発にあまり行かなかったのも同じ理由とか。
参考:プリンストンにおけるアインシュタイン